ブックタイトル資料政経

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概要

高校政治経済資料集

「学習の基本構造」を読む1.大日本帝国憲法下の政治日本は,明治維新によって,天皇を中心とする中央集権国家となった。1874(明治7)年,板垣退助らの「民撰議院設立建白書」が出され,国会開設と憲法制定を求める自由民権運動が高まった。各地に政治結社が生まれ,植木枝盛の「日本国国憲按」など数多くの民間の憲法私案(私擬憲法)も発表された。政府は,自由民権運動に弾圧を加える一方,近代国家の体制を整えるため,伊藤博文を中心として憲法の起草作業を進め,君主権の強いプロイセン(ドイツ)憲法を模範として大日本帝国憲法(明治憲法)を制定し(1889年発布,1890年施行),アジア初の立憲政治がはじまった。これにより,天皇を統治権の総攬者とする天皇主権主義のもとで,行政権が議会に優位し「強い内閣,弱い議会」ともいわれたが,権力分立原理に基づく統治機構が確立した。そして,大正時代には議会の多数党が内閣を組織する政党内閣が「憲政の常道」として慣例化した。しかし,1930年代にはいり,軍部の台頭が目立ち始め,とくに,「統帥権の独立」と「軍部大臣現役武官制」をたてに軍部の政治介入が著しくなり,教育勅語や軍人勅諭による忠君愛国思想の徹底や,治安維持法を中心とする治安立法による自由や思想への弾圧とあいまって,政党政治の崩壊がはじまり,太平洋戦争に突入した。なお,大日本帝国憲法も立憲主義憲法の常として自由権を中心に各種の権利を規定していた。しかしそれは,日本国憲法の基本的人権とは異なり,天皇が憲法を制定することで付与した「臣民ノ権利」であった。また「法律ノ範囲内ニ於テ」と議会が制定する法律によって制約を受けるものとされていた(法律の留保)が,これが治安立法による自由・権利の制約を容易にしたのである。2.日本国憲法の制定1945年8月,日本は,日本の軍国主義の除去や民主化を要求するポツダム宣言を受諾して降伏した。日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は大日本帝国憲法の改正を要求して第1節日本国憲法の制定? 75きたが,日本側は大日本帝国憲法に字句の修正を加えただけの「松本案」を提出してGHQに拒否された。結局,マッカーサー三原則に基づくGHQ案(マッカーサー草案)を基礎にした日本国憲法が成立する。この制定過程から,のちに「押しつけ憲法」論が生じるが,天皇主権主義から国民主権主義に統治の原則を根本から変え,平和主義と基本的人権の尊重を柱とする新憲法が誕生したのである。3.国民主権と象徴天皇日本国憲法は,前文で,「主権が国民に存することを宣言し」と,国民主権主義をとることを明確化した。大日本帝国憲法では神聖不可侵の統治権の総攬者であった天皇は,1946年の「人間宣言」によってその神格を否定し,そして日本国憲法で,国民主権のもとで,政治に関与しない,日本国と日本国民統合の「象徴」とされ(象徴天皇制),内閣の助言と承認によって憲法が規定する国事行為のみを行うこととなった。この象徴天皇制の成立については,日本国憲法が制定された敗戦直後の国内外の情勢があった。まず日本の指導者層には「国体」(天皇制)を護持しようとする考えが根強くあった。GHQに拒否された松本案は,大日本帝国憲法の天皇制をほぼそのまま踏襲しようとするものであった。一方で,連合国の内部には天皇を戦争犯罪人として裁けとする主張が存在していた。こうしたなかでアメリカは,占領政策を円滑に進めるために天皇制の存続をはかることになる。そのために,大日本帝国憲法が天皇に認めていた統治権を剥奪することで,民主主義(国民主権)の枠のなかに天皇制を位置づけようとした。日本国憲法第1条の「この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」の表現はそのことを示している。ただ,大日本帝国憲法下にあっても実際に天皇がその統治権を直接に行使する機会はまれであって,むしろ天皇の「大日本帝国」における機能は,権威主義的ではあったが国家統合のシンボル的役割にあったと見ることもできる。その意味では,天皇制に関する大日本帝国憲法から日本国憲法への流れは,断絶している面と連続している面との両面でみることが必要である。新しい動き/視点明治憲法の立憲主義/明治憲法は「万世一系」の天皇を主権者とし,「統治権の総覧者」あらひとがみとしている。天皇を「現人神」として神格化させる動きは昭和期になると強まるが、明治憲法はその軍国主義の動きを助長したものとして理解されやすい。しかしその制定時、4条の「天皇は(中略)統治権を総覧しこの憲法の条規によりこれを行う」の箇所を、天皇より憲法を上位に置くものとして削除すべきだとする意見があったのに対して、伊藤博文が立憲政治の観点から原案どおり残存させたエピソードがあり、一方に立憲主義の発想があったのも事実である。また、帝国議会のうち衆議院は、37条や39条に規定された実際上の法案承認権をテコに、政府が提出した増税法案などに抵抗した。この動きは大正デモクラシー期から昭和期まで続く。第1編現代の政治