ブックタイトル資料政経

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概要

高校政治経済資料集

32 ?――政治・経済便覧すう第4章国務大臣及枢ほひつせめにん第55条1国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任すべちょくれいそかかわしょうちょくスふくしょよう2凡テ法律勅命其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要よしじゅんスこた第56条枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス第5章司法おいよこれ第57条1司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フもっこれ2裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムそなもっ第58条1裁判官ハ法律ニ定メタル資格ヲ具フル者ヲ以テ之ヲ任スよほかそめん2裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分ニ由ルノ外其ノ職ヲ免セラルルコトナシちょうかいもっこれ3懲戒ノ条規ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムこれただあんねいおそれ第59条裁判ノ対審判決ハ之ヲ公開ス但シ安寧秩序又ハ風俗ヲ害スルノ虞よとどうアルトキハ法律ニ依リ又ハ裁判所ノ決議ヲ以テ対審ノ公開ヲ停ムルコトヲ得かんかつ第60条特別裁判所ノ管轄ニ属スヘキモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ムよ第61条行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニあ於テ受理スルノ限ニ在ラスみつ密こ顧もん問用語解説第55条(国務大臣の)輔弼国務大臣は一人ひとりが所管事項(外務,文部,大蔵など)について,天皇の行政権を輔弼(たすける)する責任を負っていた。日本国憲法では,内閣は,合議体として天皇の国事行為に対して,助言と承認を与えるにとどまり,その責任は,国会に対して負うことになった。副署天皇の文書行為について天皇の名と並べて,輔弼する責任者が署名した。第61条行政裁判所行政官庁のおこなった行為の適法性を争い,その取消し,変更などを求める訴訟について,審理および判決を下す裁判所。憲法を読む・5憲法を読む・6天皇の内閣と国務大臣の責任(第4章)そうらん明治憲法では,天皇が統治権を総攬したが,不完全ながら権力分立制を採用し,行政権は,天皇みずからが行い,または,その下の行政機関に行使させた。内閣の制度については,憲法上には明文の規定がなく,ほひつ「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第55条1項)と,それぞれの国務大臣が天皇を輔弼(補佐)すると定めているだけであった。にな行政を行うのは天皇であり,内閣は行政権の担い手でもなく,内閣として天皇を輔弼する地位にもなかっただじょうかんのである。内閣制度は,1885(明治18)年に太政官制に代わって設けられたが,内閣は議会とは無関係に存立し(超然内閣),各大臣は議会に対して責任を負うことはなく,天皇に対して責任を負うものとされた。明治憲法における内閣制度には,さまざまな欠陥があった。1内閣の存立・存続が,議会や国民と関係づけられていなかったため,民主政治の発展を期待することはできなかった。2政党内閣が発展しなかったとうすいため,国政は官僚や軍閥の手にゆだねられた。3統帥けん権の独立が主張され,議会や内閣はこれに参与できなかった。4国務各大臣は天皇を単独で輔弼し,総理大臣は「同輩中の首席」であるに過ぎず,内閣は弱体であった。日本国憲法では,総理大臣は国会の指名に基づいて天皇が任命し(第6条),国務大臣は総理大臣が任命し(第68条1項),行政上の全責任は,連帯して「国会」に対して負うことになった(第66条3項)。司法制度と司法権の独立(第5章)明治憲法では,司法権は「天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」(第57条1項)とされ,裁判所は天皇に属する司法権を実質的に行使する機関であった。裁判の権威は,天皇の名による裁判であることに基づくものとされたのである。また,司法裁判所の裁判権は,私法上の争いを審理する民事裁判と,犯罪者に刑罰を科する刑事裁判に限られていた。行政事件に関する裁判は司法部の外におかれ,「行政裁判所」の所管とした(第61条)。さらに,「特別裁判所」をおいて,特別の身分をもつ人,あるいは特殊の事件だけについて裁判することもできた(第60条)。たとえば,皇族間の民事事件などについての裁判を行う皇室裁判所,軍人の軍法違反についての裁判を行う軍法会議などはその例である。かんしょう裁判に外部から干渉が行われるようでは,裁判の公正は確保できないから,司法権は独立していなければならない。わが国でも,明治憲法時代から,このことはかなりきびしく守られてきた。司法権独立の確立の過程で有名な事件に,大津事件がある。これは,1891(明治24)年,世界の強国であったロシアの皇太子が訪日したとき,滋賀県大津において,警備の巡査が皇太子に傷害を加えた事件で,強国ロシアの報復をおそれて,時の政府は犯人を死刑にしようとした。しかし大審院長こじまいけんしりぞ児島惟謙は,断固として政府の干渉を退けて,司法権独立の先例を残した。(? p.173)