ブックタイトル資料政経

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概要

高校政治経済資料集

対論バトル118 ?第2章日本国憲法の基本的性格首相の靖国神社参拝首相の靖国神社参拝の是非をめぐって,国内はもとより国際的にも大きな問題となって国政をゆるがしている。戦後多くの歴代首相は靖国神社を参拝してきたが,国内で問題とされたのは政教分離原則をうたう憲法第20条との関係であった。一方,中国や韓国は,「A級戦犯をまつ祀る神社への参拝は,侵略戦争を肯定している」と,問題視している。そこでは戦没者の慰霊・追悼をめぐって,文化の伝統や宗教観,戦没者を生みだした過去の戦争と戦争指導者および国家への歴史認識の違い,さらには憲法との整合などがおもな対立軸となっている。データ・1靖国神社第1編明治2(1869)年,脱藩して尊皇のため横死した現維新の死者を祀るため,長州の大村益次郎が神仏代の儒いずれにもよらない超宗教で国家がとりおこなう場政として東京都千代田区九段坂上に「東京招魂社」を治つくった。この東京招魂社が明治12(1879)年に別格官幣社「靖国神社」と改称され,明治・大正・昭和の対外戦争の中で,天皇の軍隊の一員として戦死した者を「護国の神(英霊)」とたたえて遺族の心の支えになるとともに,軍事国家の思想的支柱となった。したがって,維新の賊軍の死者(西郷隆盛ら)や太平洋戦争の一般民間人犠牲者は祀られていない。敗戦後,GHQの神道指令により国家神道が廃止され,国家との関係を絶たれた靖国神社は宗教法人法により他の神社と同じ一宗教法人として再出発した。その後,昭和40年代になって靖国神社国家護持の運動と,これに対する革新勢力の大きな反対運動が起こった。●戦後の首相参拝者東久邇宮稔彦昭和20年8月に1回幣原喜重郎20年10,11月の2回吉田茂26年10月から29年4月の間に5回岸信介32年4月,33年10月の2回池田勇人35年10月から38年9月の間に5回佐藤栄作40年4月から47年4月の間に11回田中角栄47年7月から49年10月の間に6回三木武夫50年4月から51年10月の間に3回(50年は終戦記念日に参拝)福田赳夫52年4月から53年10月の間に4回(53年は終戦記念日に参拝)大平正芳54年4月から55年4月の間に3回鈴木善幸55年8月から57年10月の間に8回(55?57年は終戦記念日に参拝)中曽根康弘58年4月から60年8月の間に10回(58?60年は終戦記念日に参拝)橋本龍太郎平成8年7月に1回小泉純一郎13年8月から18年9月の間に6回(18年は終戦記念日に参拝)安倍晋三25年12月26日データ・2政教分離原則日本国憲法第20条は「政教分離の原則」を定めているが,最高裁判所は,政治と宗教の完全分離は不可能であるとして,「行為の目的が宗教的意義を持ち,その効果が特定宗教に対する援助・助長・促進または圧迫・干渉になる」か否かをもって20条3項にいう「宗教的活動」に抵触するかどうかを判断する「目的効果基準説」を採用している。●主な靖国問題解決構想A級戦犯の分祀非宗教法人化新追悼施設墓千苑鳥のケ拡淵充戦・没整者備提唱者ポイント実現への課題元古幹賀事誠長・ら自民党麻生外相前山副崎総拓裁・ら自民党昭和53(1978)年に靖国神社が合祀したA級戦犯の14人の霊をほかに移す靖国神社側は,神道の教義上,分祀は不可能との見解。憲法の政教分離原則に触れる可能性から,政府が神社に分祀を強制することは困難宗教法人としての靖国神社が自主的靖国神社が自主的解散に応じるかどに解散し,最終的うか不透明.特殊には国が関与する法人に移行した場特殊法人に移行。合も,仮に宗教色その上で,A級戦が残れば,憲法の犯の分祀などは国政教分離原則に触会の議論を通じてれる恐れがある決める戦没者追悼を目的とし,憲法の政教分離原則に抵触しない無宗教の国立追悼施設を新たに建設する靖国神社の形骸化につながるとして日本遺族会などが強く反発。自民党内にも慎重論が根強い無宗教の国立施設新追悼施設と同じ政中である「千鳥ケ淵戦調川会自没者墓苑」を拡充・長民整備。欧米諸国のら党「無名戦士の墓」のように公園化し,新追悼施設とする(『読売新聞』2006.8.16)